天坛日语导游词

2017-02-13

北京天坛是明朝永乐皇帝建成的祭天圣坛,也是我国现存最大的一处坛庙建筑。天坛公园土也广大,古柏参天,建筑精美。下面是小编为你带来的天坛日语导游词,欢迎参考!

天壇の概説(てんだんのがいせつ)

天壇公園は北京の旧外城(きゅうがいじょう)にあります。その面積は273万平方メートルで、現存する中国最大の祭祀(さいし)建造物です。現在は北京市崇文区の4分の1を占める公園となっています。明と清の両時代に皇帝が天に五穀豊饒(ごこくほうじょう)を祈った所でした。毎年1月15日に穀物の豊作を祈る行事をやり、冬至(とうじ)には天を祀る行事も行います。雨の少ない年には常雩礼、大雩礼という雨乞いもします。各種の行事を行う前の3日間、皇帝は斎宮で精進潔斎(しょうじんけっさい)をします。「祈穀(きこく)」は祈年殿で行いました。その際皇帝が殿内で礼をすると同時に、殿外では音楽を鳴らしたり、踊ったり、燎炉(りょうろ)に香をたき、神に供える生け贅(いけにえ)が次から次へと神の位牌(いはい)の前に捧げられ、祈年殿はおごそかな雰囲気でいっぱいとなりました。

1368年、太祖(たいそ)の朱元璋(しゅげんしょう)が明王朝を創立し、都を南京に定めました。天と地の神様を祀るために、1378年大祀殿(だいしでん)を築きました。1420年成祖(せいそ)の朱棣(しゅてい)が都を北京に移し、故宮を築くと同時に、南京の大祀殿を手本として北京で天地壇(今の天壇は昔天地壇といわれていた)を設け、幅12軒の大祀殿を建て、ここで神様を祀ることにしました。当時の大祀殿は12軒の正殿のほかに両側に32軒の廊下と神倉(しんそう)も造られ、正殿の前には大祀門もありました。

1530年、明代の世宗(せいそう)が天と地の神は別々に祀るべきだという大臣の提案を聞き入れ、大祀殿の南に圜丘(かんきゅう)を作り、北の郊外に方沢(ほうたく)を設け、圜丘では天の神を祀り、方沢では地の神を祀るようになりました。そして1534年圜丘を天壇、方沢を地壇と名付けました。

明代の天壇は漢白玉石(かんはくぎょくせき)という大理石よりもっと白い石も使いましたが、主に青色の琉璃瓦で造りました。そして四天門(してんもん)、神厨(しんちゅう)、神庫(しんこ)、宰牲亭(さいせいてい)があり、神の位牌(いはい)を置くため圜丘の北に2重屋根の円い形の神泰殿(しんたいでん)も築き、円形の壁でその殿堂を囲みました。それがのちの皇穹宇(こうきゅうう)と名付けられた殿堂と廻音壁(かいおんへき)です。

1538年祈穀殿(きこくでん)と名が変わった大祀殿は廃棄されましたが、1540年大享殿(だいきょうでん)が建築されることになりました。1545年に出来上がった大享殿も円い形で3重の屋根があり、その色は下から上に緑、黄、青となっています。6年を費して建てられた大享殿は明代ではただの2回しか使ったことがありませんでした。

1750年大享殿の左右2棟ずつの配殿も1棟ずつに直し、配殿に置く日、月、星、辰、山、川、河、湖、風、雨、雷、稲妻などの神の位牌がすべて撤去され、皇帝の祖先の位牌に変わりました。

1751年大享殿と大享門が祈年殿と祈年門に変えられ、屋根の色も全部藍色(あいいろ)にされました。

1889年、雷で350年の歴史を持った祈年殿は焼けてしまいましたが、その時建物は全部沈香(じんこう)の木で造ってあったので、その香りが周囲数キロにもわたって漂っていたそうです。

1890年再建にかかり、1896年やっともとの形と同じような新たな祈年殿が築かれました。

清が滅びた時残っていた天壇は273ヘクタールもある広い名勝地でした。1枚の壁が天壇を外壇と内壇に分け、壁は北は円く、南は四角い形になっています。外壁の長さは6416メートルで、内壁の長さは3292メートルあります。門は2つあります(ほかの3つの門のうち、北と東の門は民国時代に作ったもので、南の門は解放後作ったものです)。外壇には松と檜がいっぱい植えてあり、建物など一つも見えません。建物はほとんど内壇に集まっています。内壇を北から見ればまず神の位牌を置く場所としての皇乾殿(こうけんでん)が立っています。まずこれを簡単にご紹介致します。

皇乾殿(こうけんでん)

皇乾殿は祈年殿に祀られた神の供養を行った場所です。白い大理石の台座の上に建てられています。明の永楽18年(1420年)に創建され、天庫(てんこ)と呼ばれています。当時は6間もある黄色い煉瓦の建物でした。嘉靖(かせい)24年(1545年)に改修され5間となり、皇乾殿と改称されました。その後、清の乾隆(けんりゅう)期に黄色い煉瓦は瑠璃瓦に替えられました。

次は祈年殿についてご紹介致します。

祈年殿(きねんでん)

皇乾殿のすぐ前は祈年殿です。祈年殿が3層の漢白玉石の台座の上に聳えたっています。台座の面積が5900平方メートルあり、層毎に彫刻されている手すりがあるほか、南北の階段の中央にまた龍雲石というレリーフも嵌め込んであります。真っ白な台座に聳えている祈年殿は高さ38メートルで、直径が32.72メートルあります。円形の赤い木造の壁と青琉璃瓦の3重屋根の頂には、金メッキの宝頂と呼ばれる飾りが置かれています。遠くから眺めると青空の下で白、赤、藍などの色彩の華やかさと建物の雄大さに感動させられます。

それぞれ9段となっている階段を登り、祈年殿に入って見ますと、壁にはレンガも石も使われていませんし、天井には釘や長い横梁(よこばり)や大きい棟木(むなぎ)も使われていません。四季を代表している高さ9.2メートルの4本の龍井柱、12ヵ月を意味する12本の赤い柱と、窓に嵌めこまれている1日の12刻を意味する12本の柱だけで、重い屋根を支えています。柱は合わせて28本ありますが、これは天の28の星座を意味しています。龍井柱を除いた24本は1年の24の節気(せっき)を象徴しています。天井はこれらの組み合わせによって高くて大きな円形になっています。地面にある龍と鳳凰(ほうおう)の模様になっている円い龍鳳石(りゅうほうせき)と対応するように天井には彫刻の龍鳳もあります。殿堂の真正面の御座と屏風は神の位牌を置く所で、東側は皇帝の祖先の位牌を置く場所です。西側は皇帝の一休みする所だそうです。

殿堂を出て眺めると、前には数百年前からの銅製の八卦炉(はっかろ)というかまと鼎(かなえ)という3本足の丸く深い器が置いてあり、広い庭の両側にはおのおの9間の配殿が並んでいます。

目を祈年殿の東に向けますと、72間もある長い廊下が見えます。廊下は打牲亭(だせいてい)という生け贅を殺す所や、神庫や神厨をつないでいます。それは神に供える食べ物をほこりや砂などから守るために、わざわざ作った廊下です。この廊下が祈年殿まで伸びていないので、行事を行うたびにそこにテントを作り、供える食べ物に少しもほこりが落ちないように用心深くしていたということですが、今も地面にテントを立てるための穴が見えるそうです。

祈年殿の正面は祈年門です。門の南東に瑠璃瓦の燔柴炉(はんさいろ)が残っていますが、それは生け贅を焼く所だそうです。

次は海漫大道を歩きながらご紹介いたします。

海漫大道(かいまんだいどう)

祈年門から南へまっすぐな道が伸びています。この幅28メートルの道は長さが360メートルもあります。道の中央には一直線に漢白玉石が敷かれ、その両側には城壁に使うレンガが敷かれています。祈年殿、皇穹宇と圜丘台を一線につないでいるこの道はいわゆる海漫大道です。大道の中央に「服台」(ふくだい)という所も残っており、昔皇帝が行事を行う時、服を着換えた所だったということです。

では海漫大道の南端にある皇穹宇を一緒に見学しましょう。それから廻音壁についてまたご紹介いたします。

皇穹宇(こうきゅうう)

海漫大道の南端にある皇穹宇は祈年殿と同じ形で、スケールの小さい円い建物です。皇穹宇の屋根も藍色なので、遠くから眺めると開いた藍色の傘のように見えます。この高さ19.5メートル、直径15.6メートルの殿堂は16本の柱で円形の屋根を支えています。殿内には神と皇帝祖先の位牌が置かれ、殿堂の両側には配殿もあり、すべてを円い壁で囲んでいます。壁の西の外側に「九龍柏」という数百年の古木(こぼく)があり、壁のま南はやはり門となっています。

廻音壁(かいおんへき)

皇穹宇を囲んでいる塀は廻音壁と呼ばれています。この壁で、二人左右に分かれて、一人が小声で壁に向ってささやくと、180度反対の所にいるもう一人の耳にその声が伝わります。つまり、現代の電話のように、顔も見えない所での話し声が伝えられます。これは家来たちに内緒話をさせないため造られたそうです。皇穹宇の前の三音石という石上に立って手をたたくと、こだまが1つ、2つ、3つと聞こえます。いずれも科学的でない考えに基づいて造ったものですが、結局科学的結果が出てきているというのは、円い形が大きな役割を果たしているからでしょう。音波が周りの壁や欄杆(らんかん)にぶつかって、こだまとなって返ってくるとか、声が屋根のあるすべすべとした壁に沿って廻って、発散しないので、電話のように他の位置に伝わるとかいうのは、建築学と声学の巧みな結合によるものです。当時の人にとって、そんな現象は神に近く、神が人間の声を聞いたり答えたり出来るとしたのです。

皇穹宇の南は圜丘台です。その圜丘台とそこで行われる行事の様子をご紹介いたします。

圜丘台(かんきゅうだい)

皇穹宇の南は2重の赤い壁に囲まれている圜丘台です。それも外壁が方形、内壁は円形となっています。この円形の台を圜丘台といいます。皇帝が天に祈りを捧げる場所です。3層の壇は大理石で出来ており、建物はありません。冬至の日に、斎宮(さいきゅう)で身を清めた皇帝は、中央の天心石からその年の出来事を天に報告しました。そこに立って声を出すと、周囲の壁に反響して、大きなこだまが返ってきます。台の周囲には4つの「天門」があります。南は昭享門(しょうきょうもん)で、東は泰元門(たいげんもん)といい、西は広利門(こうりもん)で、北は成貞門(せいていもん)と言われています。3段造りの真っ白な円形の台がその中央に聳え、上段の直径は30メートル、中段は50メートル、一番下は70メートルですが、石の数、手すりの数、階段の段数などはすべて9の倍数となっています。例えば、階段は全部で9段です。3段作りの円形の台の最上段には、1枚の丸い石が真中に敷かれ、それを囲んで1周目の石が9枚、2週目は18枚で、9週目は81枚です。台の中段は10週目の90枚から18週目の162枚まで、3段目は19週目の171枚から243枚までです。手すりも最上段に72本、中段に108本、下段に180本あります。

望燈竿、燎炉、燔柴炉(ぼうとうかん、りょうろ、はんさいろ)

圜丘台に立って見ると、外壇の緑が満喫でき、台の南にある燎炉(香や祭文を書いた板、絹などを焚く所)と東南にある燔柴炉と西南の望燈台(ぼうとうだい)も見えます。天を祀る行事は冬至の夜明けに行う慣しでした。

まず圜丘の西南に長い竿を立て、大きな燈籠をかけます。清の乾隆帝の時、その竿が4.5メートルも長く、その上にかけた燈籠が2.7メートルもあり、中の蝋燭(ろうそく)も1.3メートル以上の高さがあったそうです。これは「望燈」と言って、行事を行う前、まずそれに燈をともしたそうです。その時刻になると、鐘を鳴らして、皇帝が斎宮から圜丘に上がり、圜丘の中心に着けば、鐘は止みます。と同時に8つもある燎炉で香をたき、燔柴炉で生け贄を焼き始めます。するとすぐに圜丘には香と煙が立ち込めます。これを「繚庭(りょうてい)」といいます。煙の中から祝詞(しゅくし)の声が聞こえ、皇帝が大臣を率いて、香を捧げて神を迎え、それから供え物を捧げます。最後は音楽を鳴らして、舞人たちが踊って神を見送ります。神はもう帰られたと思った時、すべてをやめて皇帝が鐘の音の中を帰るという神聖な雰囲気に満ちた行事でした。

最後に、圜丘の西側にある斎宮についてご紹介いたします。

斎宮(さいきゅう)

圜丘の西には斎宮という東向きの建物があります。面積は4万平方メートルで、正方形の建物です。本殿の5間は皇帝が斎戒(さいかい)する場所です。寝殿も同じく5間あり、横に浴室が付いています。明の永楽18年(1420年)年に創建され、その後何度か改修されましたが、最後の改修は清の嘉慶24年(1819年)です。城のように城壁もあり、また堀りもあります。堀りに面しているのは廊下で石橋が掘りにかかり、城の中には無梁殿(むりょうでん)と言われている正殿と寝殿と鐘楼のほかに、石亭も一つあります。この石亭の中心に「斋戒(さいかい)」と書かれた銅の牌を握った人形が立っていますが、それは唐代の大臣の姿だという伝説があります。

ここまでご覧になり、天壇の様子についてもう大体お分かりだと思いますが、不思議に思うこともあるでしょう。例えば

どうして塀は北は円形、南は方形となっているのでしょうか。

どうしてすべての建物が円形になっているのでしょうか。

9の数字には何か特別な意味があるのでしょうか。

外壇に松がいっぱい植えられているのはどんな意味なのでしょうか。

北京の宮殿の屋根がほとんど黄色なのに天壇のはどうして藍色なのでしょうか。

海漫大道にはどんな役割があるのでしょうか。

など……。

実は数多くの「どうして」が分かって始めて天壇の持っている独特な趣が味わえるのです。では天壇の表からその裏まで含めた境内に入り、その底に流れている中国風情を探りましょう。

昔中国人は天は円くて不思議な神の住む所、地は四角い人間の住いだという考えを持っていました。それを知れば、天壇の塀は北が円く、南が四角い構造のわけが分かるでしょう。

天壇は天の神様を祀る所ですから、本当に空にある雰囲気を作らなくてはならないので、外壇に一年中緑色である松を植え、建物を円形にし、屋根にも空の色と似ている藍色を塗りました。そうして内壇に立って見ると、下は蒼い色ばかり、身の周りはみな天を連想させる円い形、上は見わたす限り青空、そんな境地に身を置けば、すでに天にいるような感じがします……。それにその円い形から不思議なことも起こります。圜丘台の中心に立って声を出すと、声が大きくこだまします。廻音壁もそうした音響効果を利用したものです。

古代の中国人はまた天が9層あり、天の神はこの9層の天に住んでいるというおもしろい考え方を持っていました。それで天の神を祀る場所は数字がみな9になるべきといろいろ工夫しました。工夫の最たるものは圜丘で、そこが円形で、9の倍数の敷石(しきいし)による造りのほかに屋根もないのは、すでに天の上の台という意味をよく表していると思われます。

それでも天に上がるには、長い道を通らなければなりません。それを表すため、「海漫大道」を築きました。圜丘台から「天堂」に進む途中は、天の青とそれに似た樹々の緑しか見えず、白い道を白雲と考えていいので、祈年殿に着くと、もう雲を踏んで青空を通り、天の神のいる所に着いたと言えるのです。

要するに当時の人々の頭の中の、天に対する見方を具体的に見える形にして、生き生きと建築物として再現し、いわば人間の極楽として創造したというのが天壇の魅力であり、偉大さであります。

現在、人々はもう神など信じていませんが、昔は確かに今から見れば不思議な信仰を持っていた時代がありました。そしてそういう信仰から偉大なものも生まれました。天壇もその一つです。現在の天壇は公園となり、観光地となりました。配殿も売店と変わり、外壇は亭や花などが公園に一層美しさを加えています。

しかし歴史がどう進んでも、人間がどう変わっても、祖先の事やまた伝説を慕い、歴史をさかのぼって、その時代に思いをはせることは価値のある楽しみで、懐かしい気持ちにもなるでしょう。天壇こそそんな楽しみ、懐かしさをもたらしてくれる場所なのです。われわれ人間の歩んできた道を顧みたいと思うなら、建築の美と歴史の美を持っている天壇へ古(ふるきもの)をしのび、味わう気持ちでいらっしゃってください

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